2014年4月10日 (木)

『真理』を学ぶには大自然からが一番

塩沼:これも日本的といえば日本的な話ですが、修験道の開祖・役行者は教義をほとんど残さず、言葉も本当に数えるほどしか伝わっていません。
一方お釈迦様も、亡くなる間際に「論理や理屈ではない」といったことを言われていました。

たとえば、お釈迦様の最後の旅路のエピソードの中に記されていることですが、ご自身の死を予感して、生まれ故郷に向けて、弟子のアーナンダをつれて故郷への道を辿ります。
これは『大般涅槃経』に伝えられている話ですが、鍛治屋のチュンダが布施した食物にあたり、衰弱し重篤な状態のときにスバッダという修行者が問答にやって来ました。
アーナンダが断ろうとするとお釈迦様は、スバッダを招き入れました。

そこでスバッダはお釈迦様に対し、当時の六人の有名な哲人の中で誰が一番かということを尋ねました。

それに対し「スバッダよ、私は善を求めて出家して五十年余、正理と法の領域ねみを歩んできた。これ以外に人の道たるものは存在しない」と最後の説法をします。

人としての道、その法に従って生きていくところに、本当に大切なものが見えてくるのだと、まさに生命を懸けた最後の説法をして、この後入滅されました。
お釈迦様だけではなく、孔子にしても、イエスにしても自分で文章にして残していません。
すべて後から弟子たちによって教典が編纂されました。

伝統のある世界宗教の開祖と称されるような方は、涸れることのない泉のような存在だと思うのです。
真理に通じ真理を体得することにより、あらゆる真理の表現方法が、時に応じ人に応じてこんこんと湧き出ずる泉のごとくに表現される。

しかし、何か一つつきぬけることは容易なことではない。その後、残った弟子たちは、あのとき、師がこんなことを言っていた。いや、こういう解釈だと思うよ、と実践より理論が先行してしまう。言葉や文字ばかりが先になり、実践的認識がおろそかになりがちです。

たとえば自転車の運転でも、ある日突然乗れるようになりますが、その感覚を文章で表現してくださいと言われても無理なことです。

それを読めば、誰でもすぐに自転車に乗れるようになる本などありません。

ですから、お釈迦様もナイランジャナー河の畔の菩提樹の下で、智慧の完成、まさに独自の悟りを得たときに、一般の人に説くことをためらったと伝えられています。

自ら到達した悟りの内容がとても深いので、言葉という限定されたものに変換することは可能なのかと考えたのでしょう。
悟りという深い世界のものを、言葉という不完全なもので表現するのは無理ではないかと感じたのだと思います。

そこで、インドのヒンズー教の最高神がお釈迦様に働きかけ、七週間も考えて考えぬいた末、説法することを決意されたのです。


竹田:お釈迦様は大自然から学んだけれど、それ以降の弟子たちは、大自然ではなく、お釈迦様から学んだり、お釈迦様から学んだ人から学んだりしている。
その中で自分なりの表現をしたりもしたけれど、やはり原点としては、自然から直接学ぶのが一番ということですね。

日本人の場合、いつの時代も大自然との調和を考え、その中で独自の感性を磨き上げてきました。
日本人の価値観は、大自然とのつながりなくして語れません。
だからこそ、塩沼さんも、お釈迦様と同じように大自然を師匠とできたのでしょう。

真理は一つでしょうから、お釈迦様の得た真理を、塩沼さんは現代にあって体現している気がします。

ところで、仏教の世界では大自然はどのように捉えているのですか。


塩沼:大自然から受ける教訓こそ真の宗教の精髄です。

仏教の開祖であるお釈迦様も同じだと思います。
とてもわかりやすいお話をしてみましょう。

以前、松原泰道さんという百一歳まで現役で説法されていたお坊さんとご縁があったときのこと、「大自然、それが真理を説いている。そういう受け止め方をします」とおっしゃっていました。

花が咲き、鳥が鳴いているこの現象の中に真理を見つめる。しかし特別に花や草が説法しているわけではない。

花は花、蝶はどこまでも蝶、そこから何かを汲み取る。うなずきとる。自分の心の中に受信装置を備えて、性能が細密になるほど、大自然から何かをうなずきとる、理解ではなく、うなずきとる。

文字どおり、それらが説法していると解釈してしまうと、自然崇拝になって最も素朴な宗教であり、仏教ではなくなると教えてくださいました。

何事も不思議のない当たり前のものの中から真善美という真理を汲み取っていく、そういう一つの物の見方なのですね。


竹田恒泰:旧皇族・竹田家に生まれる。明治天皇の玄孫にあたる。

塩沼亮潤:1300年の歴史で二人目となる「大峯千日回峰満行」を果たす。


竹田恒泰・塩沼亮潤 著
PHP文庫 発行
『日本がもっと好きになる 神道と仏教の話』、より

2014年3月24日 (月)

すばらしい私たちの先祖の古代人たち

皆さん、不思議に思ったことはありません?
お日様はいつ、どこから生まれたの? 空は、宇宙は、木や草、虫、動物、人間はいつからいるの? どこからきたの?

昔々のそのまた昔の大昔、私たちの先祖の古代人たちも、同じように不思議に思ったにちがいありません。

朝、きまって東の空からのぼる太陽は、はてしなく照らし続けているのに光も熱も少しも減りはしない。いったいだれがいつ太陽をつくったのかしら。

山や川、空とぶ鳥、地にひそむ虫。花がさき実をむすぶ。自然の様々ないとなみを遠い私たちの先祖は、澄んだ目で見て豊かに想像をふくらませていったのでしょう。

また途方もなく大きな宇宙からみれば、朝顔の花の種よりも小さい私たち。しかしたしかに今ここに生きている、この不思議! 自分で生まれてきたのでもなければ、夜眠っているあいだも生かされていて朝になればまた目覚めがおとずれます。

自分で生きているのではなく生かされている!!

古代人は直感でこう感じとりました。それだけに素直でつつましい人々は、この事を常に忘れませんでした。

小鳥のさえずり、虫の声、若芽がのび風にそよぐ。夕立が地面をたたき雷が鳴る。ありとあらゆる物の奥ふかくを視たのです。創り主のかぎりない生命を、いつくしみはぐくむ無限の善意を、つきることのない叡智を視ました。

ですから古代の人はあらゆる物に神の名をつけました。砂つぶにもイワスヒメノカミ、おしっこにも、ミツハノメノカミと。すべての人は神の命の分け命ですから、命と書いて何々のミコトと呼びました。
みんな創り主の命からのめぐみで、それを頂くのですからありがとう、もったいないの心を忘れませんでした。

いつもかぎりない善意の創り主につつまれ、見守られているという考えをもっていた古代人は底抜けに明るく生きていました。

ですから『天晴れ あな面白(おもしろ) あな手伸し(たのし) あな清け(さやけ)』という、わが国だけがもっているすばらしい文化が、遠い昔から子へ、また次の世代へと語りつがれてきたのです。

それを今から千三百年前まえ元明天皇のみ代に語り部の稗田阿礼から太安萬呂が文字で書きとりました。
これが『古事記』というわが国でいちばん古い大切な書物です。その神代の巻が「日本の神話」といわれています。

「日本の神話」の書きだしは“天地(あまつち)はじめてひらけし時、高天原になりませる神の名は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)……”と、朗々とした語りです。繰り返し読んでいると、天地宇宙に秘められたふかいふかい道理が、真理が語りかけてくるような気がします。

昔の人が“日の本はことだまの幸わう国”とよんだのは、こういうことを指しているのだと、私は思いました。言葉には人間の知恵でははかり知れないほど、すぐれた働きがあるということを古代人は知っていたのですね。

高天原とは人の住む世界から天体の世界まで際限もなく広がり、目にみえる天地のいっさいを生み出し、今現在もその世界を事こまかに支えている創り主の世界です。創り主の世界は目には見えません。が、一番たしかにある世界なのです。

しかしその創り主の世界は、目に見える世界ととけあって区別がつけがたい。ですから大宇宙が高天原でもあるのです。

天之御中主神とは、かんたんには言いつくせません?“身をかくしたまいき”とある通り、お姿はだれも見ることができません。なぜ?

それはかぎりなく大らかで大きいから。目に見えるのは限りがあるからです。天空から地中のはてまで、太古から未来永遠に、あらゆる所、どんな小さな生き物にもどんなきたないと見える物の中にも、天之御中主神は生きて働いておられます。

春、つくしんぼが土の中から顔をのぞかせ、蝶がとぶ。みんな天之御中主神=創り主のお力が働くのです。

うれしい、ありがたいことですね。生命あるものすべてを生みだしはぐくむには、つきない愛と生命をお持ちです。

かなしいことに人間は自分の尺度でしか何事も見ることができません。ですから神と名がつくと何か人間の姿をした神を想像してしまう人がいます。しかし、天之御中主神とは、そんな固定した神ではありません。無限大であり無限小であり、はるかな昔からはてしない未来へととぎれることなくありとあらゆるところにいます。

姿なくして無限のお姿がある天地をつらぬく正しい法則なのです。天地のことわり、正しい道理といってもよいでしょう。
つまり天之御中主神の世界とは、この世に物体として現れるいぜんの目には見えないが一番たしかに実在する世界であり、ぜったいに善意のよいことばかりの大愛の世界なのです。

忘れてはならないのは、今、あなたの中にも、あなたの周りにもどこにでも、天之御中主神は満ち満ちて生きて働いてくださっているのです。
なんとすばらしいことでしょう!!!

出雲井晶 著
扶桑社 発行
『教科書が教えない 日本の神話』、より

2014年3月22日 (土)

正しい呼吸法と適した食事が運命を変える

運命を変えるためには、赤ちゃんが生まれたときにすることが有効であるという教えがあります。
赤ちゃんはまず産声を上げ、次に母乳を飲みます。

我々は当たり前のようにしている呼吸が正しくできていない、もしくは有効に行われていません。

息を吸うときは天地自然の気をいただき、息を吐くときには外に吐き出します。

多くの人たちは呼吸が浅いために悪い気が体の中に溜まってしまっています。
ですので、日常の中で、できれば緑がある空気が良いところで、しっかりと呼吸をしましょう。

もちろんパワースポットでするならば、よりパワフルな気を体の中に取り入れることができます。

次に食事ですが、食べるものによって体質が変わり、食べ方によって運命が変わると言われます。

食べるものについては年齢や職業、育った環境によって違いが出てきますので、基本的には自分に合ったものそれぞれが見つけていくしかないのですが、無農薬や有機栽培ということだけではなく、作っている人の愛情なども関係してきます。

特に料理を作る人が、「私だって疲れているのに…」とか「子供が全く言うこと聞かない…」などと不平不満の心で料理を作ると、そのエネルギーが料理に入り、それを食べた人たちは不平不満を言いたくなりますので、食べる人の幸せを願って作ってあげて下さい。

食べ方ですが、暴飲暴食はしないこと、そして感謝をして頂くことです。

また仙人は霞を食べて生きていると言われますが、気のエネルギーがたくさん入ってくるようになると、食事をそれほど摂らなくても良くなってくる場合もあります。


◆神社への参拝は自身の内なる神を認識すること


全ての人達が幸せになりたいと思っています。
この思いは何処からやってくるかといいますと、私達が生まれる前、神の愛の中で至福を味わっていたからだと言われます。

しかし我々は通常、その幸せを物質や他人など自分の外の世界に求めてしまうため、一時は幸せを感じることがあっても、幸せであり続けることができません。

それは物も人の心も変化していくからです。
しかし「二度寝」にとても幸せを感じる人は多いと思います。
つまり、『何もなくても幸せになれる』ということです。

『古事記』には、人は神から生まれたと書かれています。

神社の形はこのことを伝えています。
人は子宮の中で大きくなり、産道を通って生まれます。神社では参道(産道)を通ってお宮(子宮)にお参りします。

要するに、生まれる前の神の愛に戻るのです。

パワースポットの巨石には母胎回帰の石がよくありますが同じことです。

そして本殿の正面には鏡が置いてあり、自分が映るようになっています。

それはあなた自身が本当は神(=愛)であることを伝えています。

神道では『鏡の教え』と言いますが、『か・が・み』の『が=我』を取ると『か・(が)・み=神』になるというのが神社の本来の意味なのです。

この我とは、想念=マインド=エゴのことです。
この我が静まれば幸せになれるのです。

そこで世界中で瞑想や禅など、想念を静めることが行われてきました。
ですので、パワースポット巡りは、内なる神に会うためとも言えます。

波動の高い場所では、内なる神との共鳴作用が起こり、最終的には自分がパワースポットになって、愛の輝きを太陽のように放っていきます。

日本ではそのような存在のことを天照大神様と言いました。


天野雅道 文・監修
笹倉出版社 発行
『日本のパワースポット案内』、より

2014年3月10日 (月)

頭のそうじ 心のそうじ

私は、掃除の力を信じています。

長いあいだの掃除の実践を通じて、掃除が環境を変え、人を変え、組織を変えた例を、実際にこの目でたくさん見てきたからです。
もちろん、私自身も掃除の力によって大きく変わりました。
掃除の実践がなかったら、いまの私はなかったと思っています。

昭和三十六年、私はいまのイエローハットの前身となる自動車部品卸の会社を立ち上げました。「絵に描いたような理想の会社」をつくりたいという思いで始めた会社ですが、そんな私の思いとは裏腹に、古い業界のしきたりのなかで、商売はうまくいきませんでした。商売がうまくいかないので社員の気持ちは荒み、それでまた商売もうまくいかなくなる、という悪循環に陥っていました。

そんな悪循環のなかで、もがき苦しみながら私が到達したのが、掃除でした。
商売がうまくいかず荒れていた社員のために、社長としてできることは、せめて職場をきれいにし、気持ちよく仕事に携わってもらうことだったのです。

トイレから始めて、仕事場、廊下、玄関まで、毎日ピカピカに掃除することにしました。
「どうして社長が掃除を?」
正直なところ、はじめはそのような雰囲気がありました。それでも職場がきれいになったことで、社員たちの様子は少しずつ変わっていきました。表情が明るくなり、元気が出てきたのです。そして、その空気は、当然商売にもよい影響を与えるようになりました。

環境が変われば、人は変わるのです。

そのうち、社員が一人また一人と掃除を手伝ってくれるようになり、いつの間にか私の会社は、社員全員が掃除をする会社になっていました。

やがて社外にも賛同してくださる方が増えていき、いまや全国各地、さらには海外まで「日本を美しくする会」という掃除の運動として広がっていったのです。

実際にやってみていただくとわかりますが、徹底的に掃除をすると、そこに、やった人にしか感じられない充実感と爽快感が生まれてくるものです。

だから、悩んでいるとき、ストレスを感じているとき、そんなときは、掃除をして身辺を徹底的に整理整頓すれば、頭のなかがスッキリするはずです。
掃除は、確実に人の頭のなかも変えてしまうのです。

一度の掃除でも頭がスッキリするのですから、何度も何度も長いあいだ掃除を丁寧に続けていけば、やがてその人の顔が変わり、人格さえも変わってきます。

高名な思想家であり、日本が誇るマクロビオティックという自然療法を提唱してきた桜澤如一先生の言葉に、

『掃除をする広さと深さが、その人の人格に比例する』

という名言があります。
まさに、そのとおりだと思います。

掃除とは、頭のなかを掃除することであり、そのことは同時に、心のなかを浄化することなのです。
私がみなさんに掃除の実践をお勧めする所以です。


この社会を変えていくためには、まず、一人ひとりが変わっていくことが必要です。一人ひとりが毎日、少しずつでもかまいませんから、何か人のためになることをしていくこと……そういう地味で小さな積み重ねが、必ず大きな変化につながることになるのです。

まず、人に親切にすることです。自分が困っているときほど、落ち込んでいるときほど、人に親切にするのです。

ゴミが落ちていたら、すぐに拾ってください。そのぶんだけ街がきれいになります。履き物が乱れていたら、そろえてください。次に誰かが履くときに助かります。
そのような、ほんの小さなことを徹底して、しかもなんの見返りも求めずにやりつづけるのです。

そういう平凡なことの継続のなかから、いつか非凡が生まれることを、私は身をもって体験させていただきました。そして、平凡で小さなことの積み重ねのなかにこそ、人を感動させるものが秘められているのです。

そのような感動こそが、人を動かす力になり、ひいては社会を変える力になると私は確信しています。

『十年偉大なり 二十年畏るべし 三十年にして歴史なる』
四十年以上掃除を実践してきた私から、読者のみなさまに贈る言葉です。


鍵山秀三郎 著
サンマーク出版 発行
『頭のそうじ 心のそうじ』、より

2014年2月 5日 (水)

愛のキャッチボール

いい子に育てたい…。
だが、このままの子育てでいいのかしら…、そんな不安に駆られることはありませんか。

私なりに一生懸命がんばってきたのに「こんなはずではなかった…」と悩んだことはありませんか。

そうした悩みを解消するために、知識、理論ばかりに頼り過ぎてはいませんか。

「答え」は、毎日の生活の中にあるのです。
あなたの体の中にあるのです。
その「答え」を見つけるために、“愛のキャッチボール”をしてみませんか。


●独り寝:四歳の長男が、ある日突然、「お母さん、ボク今夜から一人で寝る」といいました。

子どもからこんな言葉を受けた時、「一人だと怖いわよ」「夜中に淋しくなっても知らないわよ」、そんな言葉で脅していませんか。

親のほうが、まだ一緒に寝たいという心があったりすると、「やっぱりお母さんと寝る」と子どもが言い出すまで脅す人がいます。
これではドッチボールです。子どもの心を縮めるだけです。

「お母さん、ボク今夜から一人で寝る」、そんなことを母親に向かって発言するのは、子どもの心が大きく成長を始めた時です。

「偉いわね。もう、お兄ちゃんだものね。お母さんは淋しいけど、がんばろうね」こんな時が、上手に親離れが出来るチャンスなのです。

子どもと何気ない会話の一つひとつに、一個の人格を持った人間として大切に受け止めてあげることです。
子どもも親に信頼されていることがわかり、少しずつ勇気が湧いてくるのです。

一方、育児の本に書いてあるからと、自立心をつけるために子どもの心に関係なく、親とは別の部屋に寝かせようとするお母さんがいます。
それが“しつけ”だと考えているのでしょう。
さらに自分の都合のためだけで別室にしてしまう場合もあります。

子どもの言葉を成長のチャンスとして受け止め、プラスで引き抜いてあげると、子どもはそれだけで生き生きしてきます。

心の中で『本当かしら』と疑っている人は、実践してみてください。

どんなに素晴らしい知識で育てようとしても、子どもは、思いもよらない行動、反応をするものなのです。
それが豊かな可能性を持っている証しでもあるのです。

●おむすび:三歳の子がおむすびを食べた夢を見て、お母さんに「おむすび食べたい」と頼んだ時。

子どもからのささやかな望みを、「朝は、お母さん忙しいの。おむすび作る時間ないの。幼稚園から帰ったら、おばちゃんにでも作ってもらいなさい」
「いや。いま食べたいんだもん」
「わがままだわねぇ。いまダメだといったでしょ」
これは、ドッチボールの会話です。

ちょっと耳を傾けてあげれば、子どもの心は落ち着きます。
それを自分の都合だけで、簡単に弾き飛ばしてしまう。
小さな心を素直に受け止めてあげよう、という気持ちがないと育児書からの知識や理論で、いくら説明しようとしても、その場限りの心の上塗りで、うまくはいかないでしょう。

キャッチボールでの答えは、……。
「そう。夢に見るほどおむすび食べたいの。すぐ作ってあげるから、ちょっと待ってね」

こうした言葉をもらった子どもは、どれだけ心の容積を広げるでしょう。
母親の、その場の都合で弾き飛ばされた子と、素直に希望を聞き入れてもらった子と、どちらが、寂しい目をしているか、おわかりでしょう。

こんな小さなことに気づかなければ、世界一流の教育学者に“子育て学”を学んでも、心の能力を使うことが出来なければ、いい結果は出てこないでしょう。

●中学生の詩:ある中学生の詩に、こんなのがありました。『かあさんの叱り方に進歩なし 幼稚園から十年間同じ』

「早くしなさい。いつもノロノロして。何考えてるの」「お母さんに同じことを言わせないでよ」「本当にいやになっちゃう」これだけの言葉を並べ立てているお母さん。

子どもがぺちゃんこになるまで吐き出してしまう。それを飽きもせず十年間も、同じようなドッチボールを繰り返していませんか。

子どもは、心が傷つきながらも、前へ進みたいために、あの手この手でサインを送り続けているのです。ピーピー泣いたり、原因もないのに吐いたり、すべて『お母さん、暮らしぶりが間違っているよ』のサインを送っているのです。

これに気づかないとサインはどんどん大きくなり、取り返しのつかないものになっていくでしょう。
毎日の暮らしの中で、子どもを育てているのですから、その生活の中に「答え」があるのです。

日々の暮らしぶりを点検出来る人と、気づかずに何もしない人とでは、大きな差が出て来ます。
気づいて改めるのも、あなた次第です。
ただ“人のせい”にしたまま放置していると、苦しみはどんどん重くなります。

ちょっとした心と会話のキャッチボールの中に、秘密があるのです。
この『愛のキャッチボール』によって生活の中に「答え」のあることを気づく手掛かりにしていただければ…。


『愛のキャッチボール』
玄同社 発行
内田玲子 著

2014年1月15日 (水)

草木のいのちを染め、こころを織る

トン、トン、ハタリ、…トンハタリ
ハタを織る 月下の村の すすけた障子は 小さい灯りだけど 明るい

「人目おもはず 人さえ言はにや 織りて着しぞや 縦縞を」(大和民謡)
…こんな機織唄もあった。

言って見れば、昔の手織物には、人の「いのち」が織り込まれていた。子のため、孫のため、また夫のため。これは常に、「ため」よかれ…、として織られるものであった。

昭和の初め頃にはすでに、この手織も衰滅に瀕していた。この労作も、無駄のことに、ツマらぬことに、思はれたのである。

この道、起さざめや。……私共は、即ちその復興と債権とに参じた。
月明織(げつめいおり)がそれである。

「天のめぐみ 地のいはひを うけにつつ われらまことの ヌノ織らむとす」
心こもれる ヌノのつよさには、色もまた 美しくなければならない。
ここに、草根木皮による染色は呼び興されて「草木染」と命名された。

尚、月明織は絹をもって紬に織られ、草木縞は木綿を以て、手織りされる…。
これは、草木によって一切を成されている。

「草木染」と「月明織」の意味と理念を力強く謳うこの詩は、私の父・山崎斌の作です。

文筆家としても注目されながら、草木染織を広める活動に一生を捧げた父の文才を惜しむ声も大きかっただけに、父の意志を大切にしたい。私は、日本の手工芸の真実を守り伝えるため、本当の草木染織に、かたくななまでにこだわり続けています。
では、草木染織の真実とは何なのでしょうか…。

◆色のはじめは薬

雛祭りの菱餅の三色は子供の産着の色、と私は考えています。産着は昔から、藍で染めた青、ウコンやキハダの黄色、紅花染の赤に決まっていました。皮膚にも良くて虫除けにもなるからです。

今は、化学染料で染めた色物よりは良いということで白い肌着をつけますが、色を選ぶことで親は子供の成長を助けてきました。
それで、子供の節句の雛祭りには、餅を赤と黄色に染め、藍の替わりに季節の草であるヨモギを入れて、水を呼び天災から守るとされる菱の実を型どった菱餅を供え、わが子の健やかな成長を祈ったのだ、と考えたいのです。

もちろんこれは、染織に都合のいいように解釈した話です。私は学者でも研究者でもありませんので、根拠は自分の経験と信念だけです。それをまずお断りして、いささか私の考えを申し上げたいと思います。

およそ染織における色の初めは白であり、白帛です。神に捧げる純白の白い帛にするために、植物の繊維で織った布を水に晒し、或は日光に晒して漂白しました。
その白帛に色をつけるという行為は、植物によって身を守れるという経験と知恵から生まれてきたと私は思います。

例えば、キハダの木の内皮を煎じた汁は、塗れば打ち身や火傷の薬になり、飲んで胃腸に良いことは早くから知られていました。
そこで、キハダを煎じて飲むため布で濾したところ、布が黄色くなった、或は煎じ汁を傷に塗って布で縛っておいたら黄色い染みがついた。それらは洗ってもとれない。しかし、その黄色い部分には虫がつかないようだ…。その経験から、長く保存するものはキハダの汁で黄色くしたほうがいいということが分かってきます。キハダで染めた御経の紙がその例です。

古代の染料のほとんどが漢方の生薬であり、内服して効果のあるものばかりが染料として残っているのはそのためでしょう。

ですから、毒草はタンニン分が強くて染めやすいはずなのに、毒草で染めたものは一つもありません。危ないものは家の中に持ち込まないというのが、昔の暮らしの鉄則でした。

衣類は肌につけ、身を守るものだから、少しでも体に良いように、また手間ひまかけて家族のために織るものだから、虫がつかないようにして長持ちさせたいという気持ちから、植物を選び、色を選んで染めたのが染色のはじめでしょう。

聖徳太子は推古天皇十一年に冠位十二階を定め、十二の位に、紫・青・赤・黄・白・黒の順にその濃淡で色をわりあてました。
それぞれどの染料が使われたか資料はありませんが、紫は紫草、青は藍、赤は紅花だと思います。体にいいからです。

紅花は栽培しにくいうえ、染め方も大変複雑で手間がかかります。それにも関わらず使われたのは、最も菌の入りやすい口元に紅をつけたことからもわかるように、殺菌作用があり血行を良くする効果もあるためです。

紫草の根も皮膚病の薬です。しかし染めにくく絶対量も少ない紫根の紫や紅花の赤は、高貴な人だけしか身につけることの出来ない色でした。庶民は周りに生えている草木の汁で染めた茶色い布をまとっていました。いつの時代も、貴人には貴人の、庶民には庶民の、体にいい色があったのです。

先人の手技の素晴らしさはすべて、千年、二千年という世界的なスケールでの経験の累積があって初めて生まれてきたものなのです。

山崎桃麿 著
箕輪直子 著
淡交社 発行
『草木染めをしてみませんか 〜工房で、キッチンで』、より

2014年1月 5日 (日)

「広めたい」心の奥にあるもの

「広めたい心」の中には、「思いどおりにならない」という不満が隠れている。
ただ自分が楽しむだけでいい。


ある日、四十歳くらいの女性からCDをいただきました。
「ありがとうという言葉がたくさん入った詩が浮かんだので、その詩に曲をつけ、自分でCDを作りました。このCDを広めたいので、正観さん、もらってくださいますか」

私は、次のように答えました。
「いただいて聞くのはかまいませんが、広めたいというのは私の趣旨とは違います」
この女性は、この言葉だけではわからなかったようです。

「いい言葉をたくさん埋めこんで、いいCDをつくったのだから、これを多くの人に聞いてもらいたい。そして、世の中に広めたい」と思う心は、世の中を批判しているところから生じています。

世の中や宇宙に対して、「あなたのやっていることが気に入らない」と言ったことにほかなりません。

「ありがとうのCDを世の中に広め、ひとりでも多くの人に聞いてもらいたい」=「ありがとうという概念をもっていない人が多い」というところから、このCDの製作が始まっています。

そのため、このCDが人を安らかにすることはありません。
「なんで、あなたはありがとうと言わないの?」「どうして感謝をしないの?」という「思い」(念)がこめられているからです。

自分がいいと思い、「世の中にこれを広めたい」と言った瞬間、「世の中が自分の思いどおりになっていないじゃないか」といういらだちが隠れています。

「ありがとうという言葉が自分の思ったように広まっていない。そのため、世の中の人にひとりでも多くありがとうと言ってほしい」という話になったら、その人は本当に感謝をしている人ではありません。


「ありがとう」という感謝の気持ちをもっているのなら、他人に要求するのをいっさいやめたほうがいい。

そして、感謝をすることがいいことだと思うのなら、自分がただ「ありがとう」を言い続ける。
他人がそれをいっさい言わなくても、「どうしてあなたはありがとうと言わないの」と責めないことです。

「どうしてあなたは…」という方向へ行った瞬間に喜んでいるのは、「悪魔」という存在です。
悪魔とは、一般的に言われているような、頭に角が生え、槍をもっている存在ではありません。
批判や争う心、不幸や悲劇を願い、それらを望む「心」のことをいいます。
これは非常に奥の深い話です。


よいことを勉強し、「世のため、人のために」という概念をどこかからもちこんできたとしましょう。
そのあと、「世の中にとって、とてもよいことなのだから、広めなさい」「こういうものをやるべきだ」というように方向づけされることがあります。

しかし、このようになった瞬間に喜んでいるのは「悪魔」という存在です。
他人に対して非常に攻撃的な憎しみの心をもち、そのまま憎しみの心を大きくして、世の中に対して「気に入らない」と言いなさいと、どんどん刺激していきます。

「ありがとうの曲を広めたい」「世の中を変えたい」などという考えは、すべてやめたほうがいいようです。

「この歌を広めたい」と思ったのなら、それはいらだちから来たものといえます。
自分がいい歌をつくれてうれしいと思ったのなら、淡々と歌っていく。

「ああ、いい歌に出会って幸せ」と思って歌っているのなら、聞いている人に幸せな気持ちや心地よさが伝わり、自然と広まっていきます。

小林正観 著
イースト・プレス 発行
『脱力のすすめ 「おまかせ」で生きる幸せ論』、より

心の「冷え」も「毒」になる

東洋医学の古典には、「草根木皮(そうこんもくひ、漢方薬など)、これ小薬」、「鍼灸、これ中薬」、「飲食衣服、これ大薬」と書かれています。

つまり治療法、健康法のなかで、飲む、食べる、着ることなど日常生活を正しくすることが、最大の薬だと言われている。
さらに、「身を修め心を治むる、これ薬源なり」という言葉があります。
身を慎み心を丸く穏やかに保つことが、薬になるというのです。専門的な技術・知識・薬より、正しい生活が何よりも大事です。

冷えとり医学というのは、まさにこれらを実践するものです。病気は自分でこしらえてしまったものですから、自分で治す。
この態度で臨んでください。

治らないのは治らない生活をしているからで、「治る生活をしていればちゃんと元の健康な体に戻る」のです。
体にある毒をどんどん出してください。出し切って出る毒がなくなれば、健康を取り戻せるという当然のしくみです。

ここでいう毒は、もともとは目に見えないもので、物質的な毒の他に精神的な毒があります。
物質的なものでいうと、放射能やカドミニウムなどはもちろんですが、「甘いものを食べ過ぎたら毒になる」などという言い方をします。この毒は、目にも見えなければ、検査しても出てきません。

精神的な毒は、いわゆる「気のもつれ」のこと、イライラしたり、クヨクヨしたり、頭の中がゴチャゴチャな状態を指します。そのような時は足元が冷えて毒がたまり、血流が悪くなる。そして、体のどこかに古血がたまってしまうのです。

ストレスは毒であり、冷えの原因でもあるのです。
どんなにそれをかわす術を身につけても、いつの間にかそれはたまっていきます。毎日のゴミを捨てるように、毒もこまめに除いていくことで、真の健康につながっていきます。

少しのことでクヨクヨ気に病んだり、イライラすることが多かったり、いつまでもメソメソすることがある、という人は、まず足元を温めてみてください。

人に優しくする余裕がない時、最近なんだか人を信用できないと感じる時なども、試してみてください。
だんだん温まっていくと、自分の心が冷えていたことを感じるでしょう。

心が温まる、ということは安心につながるのです。

冷えがなくなり心身ともに温まれば、不安が減って気持ちも前向きになります。
よく眠れて元気になったり、やる気が出てくる人も多いです。

心の乱れは気のもつれ(毒)となって体にたまり、内臓に悪影響を与えていきます。自分本位な思いは、大きく分けると「傲慢」「冷酷」「利己」「強欲」の4つ。

傲慢:人を見下したり、見下されるのは嫌だと見栄を張る心、また卑屈な気持ちも傲慢の裏返し。何でも当たり前だと、他人に感謝しない心も同様。このような気持ちの人は、肝臓や胆嚢が悪くなりやすい。

冷酷:自分に都合のよいことだけを考える心の冷たさ。他人に対して思いやりがない人は、心臓や血管系統が悪くなりやすい。心筋内でうまくカルシウムイオンが働かず、代謝異常を起こし、腎臓、尿管、胆嚢などに結石ができやすい。結石を繰り返すような人は、冷酷な心で心臓を悪くしていないかどうか反省が必要。

利己:自分の身の安全、安心、安楽だけを求める心。少しでも空腹になるとひもじさを感じ、我慢できずにすぐに飲食をします。そのため消化器を傷めやすく、無精なので肥満体が多い。食べ過ぎの毒が膝や股関節に出て、だんだん歩きにくくなることが多い。

強欲:欲が深い思い。お金や物だけでなく、自分がしている努力や能力以上のものを欲しがる傾向があります。肺・大腸が悪くなりやすく、皮膚病や潰瘍性の病気も引き起こす。強欲な人は、肺が毒を出すのを嫌がってぜんそくになったり、大腸が大便を出したがらず便秘や痔になる傾向があります。

誰でもこの4つ全てをもっていますが、人によってどの傾向が強いか差があるので、かかる病気は千差万別です。
こうした乱れがある程度以上に悪くなってしまうと、腎臓と膀胱が悪くなり、気持ちもだんだん消極的になっていきます。

もし病気になったら、体を心配するよりも、心の反省を先にすべきですね。

心がけで大切なことは、いつも他人本位でいるということです。そして謙虚な気持ちで、自分の悪いところを治そう(直そう)とすることが肝心です。

進藤義晴 著
進藤幸恵 著
PHP研究所 発行
『幸せになる医術 これが本当の「冷えとり」の手引書』、より

2013年12月26日 (木)

スピリチュアル・エマージェンシー(精神的・霊的危機状態)

その客はあなたの内にいる、そしてわたしの内にも。
種子のなかに芽が隠されているように。
われわれは皆もがき苦しんでいる。
そこから離れてしまった人など一人としていないというのに。
傲慢さを脱ぎ捨て、心の内に目を向けるのだ。

青空はどこまでも果てしなく広がっている。
日々の失意の念は消え去り、自らを苛んできた痛みが薄れていく。
その世界にしっかりと腰を据えるとき、
百万の太陽が眼前に現れ、光を放つのだ。

カビール『カビールの書』


一部の人たちにおいては、霊的発達における変容の旅が、「スピリチュアル・エマージェンシー」(精神的・霊的危機状態)と呼ばれる危機になることがある。そうした危機のなかでは、内面の変化があまりにも急速で、精神状態が相当つらく苦しいものになることがある。これらは、あらゆる時代の聖典において神秘的道程の途上にあるけわしい通路として繰り返し記述されてきた。

スピリチュアル・エマージェンシーとは、その人間の存在全体に関わる深い心理的変容をもたらす、苦難として体験される決定的な諸段階であると定義できる。

それは非日常的意識状態という形で現れ、強烈な感情やヴィジョン、その他の諸感覚の変化、通常と異なった思考、さらにはさまざまな身体的兆候を引き起こす。こうした数々の体験は、しばしば霊的なテーマを巡って展開し、心理的な死と再生、前世の記憶と思われる体験、宇宙との一体感、様々な神話上の存在との遭遇、その他それに類する主題を含んでいる。

〈スピリチュアル・エマージェンシーの凡例〉
・変化に抵抗する
・プロセスを嫌い、信頼しない
・体験を討論したいという切迫した欲求が頻繁に起こる
・無分別にプロセスを伝えようとする(いつ、誰に、どのように伝えるのか考えない)
・自己と世界の認識が、突然急速に変化する
・困難な体験は圧倒するものとして現れ、歓迎されないことが多い
・身体がガタガタ揺れたり、震える体験。日常生活を妨害するエネルギー体験
などなど…。


大切なことは、スピリチュアル・エマージェンシーのもっとも劇的で困難な体験でさえも、霊的開示のプロセスの自然な段階であり、好ましい状況のもとでは有益に働くということを認識することである。

このプロセスは本来、治癒と変容の能力を秘めているのである。
けれども、あまりにも多くの心理的素材が無意識の様々なレベルから浮上してくるため、それに巻き込まれた人は日常生活を営む能力が妨害されてしまう。
しかし、時にはそれが劇的に現れてくるにもかかわらず、その嵐のような出来事は本来、有機体がその機能を簡素化し、過去のネガティブな刷り込みやプログラムを取り払い、治癒へと向かう試みなのである。


スピリチュアル・エマージェンシーでよく経験されるもっとも厄介で不安を抱かせる要素のなかに、恐怖感、孤独感、狂気の体験、死へのとらわれがある。
こうした心の状態はしばしば治癒プロセスに本来そなわっている避けがたい中心的な部分であるが、思いやりのある支援がないと、恐怖を呼び起こし、心を圧倒してしまう場合がある。

無意識への扉が開かれると、実に様々な抑圧された感情や記憶が解き放たれる。個的ないしトランスパーソナルな領域に特有の記憶や体験に出会うと、それと同時に恐怖、孤独、狂気、死の要素が現れることがある。過去に体験した重病や命に関わる事件その他の困惑した出来事を再び経験することもある。あるいは、複雑に入り組んで混沌としたダイナミックな兆候を伴って、生物的誕生を再体験するかもしれない。

恐れは変化のモザイクの自然な一片である。

コントロールを失う恐怖に直面すると、精神や自我は必死にしがみつこうと巧妙になる。こうした状態にある人たちは複雑な否認のシステムを創り出し、このままでまったく問題はないから変化に身をゆだねる必要などないとか、自分が感じている変化は錯覚にすぎないなどと自分に言い聞かせるのである。あるいは、ただそういう状態にならないよう努力するかもしれない。つまり恐れの感情にしがみつくことで、あまりに急激な変容からうまく逃れるのである。

このような新しい奇妙な感覚が始まると、たいていは不安を覚え、その感覚を恐怖そのものだと思い込んでしまいやすい。

集中的な瞑想の実践を行っていたある女性は自分の反応をこう述べている。
「私は導師のもとへ行き、奇妙な不安の数々について話しました。彼はそれを聞くと、『そうしたことが起こったら、覚えておきなさい。それはあなたに襲いかかる恐怖ではない。それはあなたのなかを通っている神なのだ、と』。それは私に大きな慰めを与えてくれるのです。」

あなたのもっていないものをつかむために 明け渡しの道を進まねばならない。
あなたではないものに到達するために 今のあなたとは違う道を通って行かねばならない。


スタニスラフ・グロフ 著
安藤治、他 訳
『魂の危機を超えて』、より

2013年12月25日 (水)

この本には、何十時間ものカウンセリングを受けるのと同じ効果がぎっしり詰まっています

◆いくつもの自分

ひとにはいくつもの自分がある


ひともわかっているし
自分もわかっている自分がいる

ひとにはわからないが
自分にはわかっている自分がいる

自分にはわからないが
ひとにはわかっている自分がいる

自分にもわからないし
ひとにもわからない自分がいる

ひとって自分が識っているよりも 大きいもの

ひとって自分も識らない
不思議な宇宙

◆くそ

わたしは毎朝くそをする
くさいくさいくそをする
わたしは毎朝くそをする
くそが溜まると病気になる
誰でも腹にくそがある
くそが出ないと病気になる
誰でもみんなくそがある
心なかにくそがある

◆落ち込み

なんにも感じなければ
落ち込まない

なんにも考えなければ
落ち込まない

なんにもしなければ
落ち込まない

あなた生きているひと
あなた行動しているひと
あなた理想を掲げているひと
あなた未来を拓くひと

◆傷

木を見てごらん
木は黙って
堂々と
立っている


もっと近づいて
木を見てごらん
樹皮には
いっぱい
傷がある

◆赤ちゃんの力

赤ちゃんはなんでも口に入れる
こわす ちぎる
やぶる なげる


赤ちゃんはクワガタ虫を
ガラスの破片を
刃ものを
火を
怖れずにつかむ


赤ちゃんの学ぶ力のすごさ
赤ちゃんのいのちの強さ


ねぇもう一度
赤ちゃんに戻ろうよ

◆出会い

ひとに出会って
自分に出会う


出会いには
覚悟がいる


本心で生きる
覚悟がいる


傷つく
覚悟がいる

◆すなおが一番

うれしいわぁ
たのしいわぁ
さびしいわぁ
かなしいわぁ
つらいわぁ
痛いッ
はらたつ
びっくりした
ごめんなさい
すきやわぁ
きれいやわぁ
おいしいわぁ
まずいわぁ
ありがとう


こころの底から
湧いてくることばを
言ってみる


あと味が悪ければ
うそがある

すっきりすれば
ほんまもの

ほんまものは
響きあう

すなおが
ほんまに一番や

◆あなたが好き

あなたが好き
あなたが好き
あなたが好き
あなたが好き

好き 好き 好き だぁーい好き
百ぺん言っても言いたりない

でもあなたは
わたしの持ち物ではないのね

◆愛の正体

「愛しているんです」と言うひとのはなし
ようきいてみたら
訳がわからんようになりました


それって
淋しさを埋めるためのものやったり
自分の不安を消すためのものやったり
時間をつぶす相手がほしいことやったり
自己満足のために尽くすことやったり

独占欲やったり
支配欲やったり
従属欲やったり
sexすることやったり
嫉妬やったり
不便さをおぎなうためやったり
結婚するためやったり
子どもを産むためやったり
家庭をつくる道具やったり
尊敬や信頼やったり
単に好きやということやったり

みんな「愛」って言葉
自分の好きなように
自分の便利なように
簡単につこてはりますなあ


そやからあとで
いろんな問題が
おこるんですなあ

◆うらやましい

唄えるひとがうらやましい
踊れるひとがうらやましい
字きれいなひとがうらやましい
絵上手なひとがうらやましい
英語話せるひとがうらやましい
恋人いるひとがうらやましい
言いたいこと言えるひとがうらやましい
やりたいことやってるひとがうらやましい


あんた
しっかり
ひとのこと見てるのやなあ
うらやましいなあ

◆むちゃくちゃ

どないしたらええのかわからんて?

やりかたがわからんて?

教えてくれるひとがおらんて?

本気でやりたいことがあるんやったら
むちゃくちゃでええから
できることからやったらええやんけ


どんなえらいひとでも
最初はみんなむちゃくちゃやった
むちゃくちゃのなかから
そのひとが生まれた


あんたもむちゃくちゃからやったらええやんけ
むちゃくちゃのなかから
新しいあんたが生まれるて

◆わからない

子どもだから
何もわからない

そう
大人だから
何もわからない

大人も昔は
子どもだったのに

六浦基 著
アニマ2001 発行
『新装版 カウンセリング詩〜カウンセリングのエッセンス丸かじり こころとからだがいきいきとよみがえる』、より

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