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2013年12月17日 (火)

音は天地の気が和し、万物が生まれ栄える響き

人の振舞いが生む、人籟の響き。
さらに奥深い音がある。
聴こえないが、たしかに存在する大自然の呼吸、すなわち、天籟の音……

思惟をとり去り、作為を捨てて、無心になりきるとき、天地人一体、その耳に天籟の音がとどくのだという……


人間をとり巻く外界には、「静寂」というものはありえない。たとえば、われわれの周囲を満たす大気層に注意を向けてみましょう。
大気は地球の自転にうながされて層をなして流動し、絶え間ない風の流れを生みだして、さまざまな音を鳴り響かせています。大海のざわめきや大地をかけめぐる底深い地鳴りも、生気に満ちた激音となって聴覚を襲う。

外界はこのように、底知れぬ騒音が渦巻く世界であるはずなのに、人間の鼓膜がとらえて知覚へと引き込む音は、ときに「静寂」、ときに「無音」となって「静まりかえる」……

たとえば、「心の平静を保つ」という表現があります。平らであり、静かであると書き記す。つまり瞑想のただなかにあり、三昧境にひたりきる人の身体の内部は、ときに「無音」といってよい状態で満たされる…という自覚が生まれている。

人間の聴覚とその鼓膜、「内なる鼓」の働きは、きわめて鋭敏であると同時に、きわめて鈍感である。両極の間を揺れ動いていることがわかります。鈍感なのでなく、むしろ「意志をもって」消し去っているというべきなのか。
この働きは、「選択聴」と呼ばれています。

人間の耳は、「外なる音」と「内なる音」、あるいは「内なる雑音」というものをはっきりと聴き分ける。それらの音をときに集中して聴き取り、ときに巧みに消し去ってしまう。幅広い働きを秘めた両義的な器官だといえるでしょう。

ところで、人間の耳がとらえうる「宇宙の響き」というものがあるようです。この響きは、日常をとり囲む環境世界が生み出している雑然とした騒音とは、少し趣きを異にするものです。

雑音を超えた音。日常的な音を超えた音…。
聴きえない音に聴き耳をたて、聴き入ろうとする行為によってのみ感じうる音なのです。

中国の荘子はこの世の三つの音、「人籟」「地籟」「天籟」を聴き分けました。
籟(らい)とは竹管を並べた管楽器で、大きなものを笙(しょう)と呼び、小さいものをヤク(竹冠に約)という。中間の大きさのものが、籟と呼ばれる笛だという。

「人籟」とは、たとえばこの竹の笛、籟を吹くことで生まれでる響きだという。笛を吹く、つまり人が楽器を吹き鳴らす。演奏者や楽器の振舞いによって生みだされる音です。

声を発するとき、人間は、身体に潜む一本の消化管の先端部である口腔や鼻腔に空気を出し入れして響かせています。
つまり、呼吸をもとにして声をだす。この人間の発声も、いまの笛と同じように人籟の音だということになる。

「地籟」とは何なのか。
たとえば風が吹き、あたりの空気を渦巻かせる。すると、大地の凹凸や抵抗するものを巻き込んで音をたてる。あるいは山腹に洞穴があり、朽ち果てた巨木の幹に穴があいていたりすると、つむじ風が吹きすぎてボーボーという音が湧きあがる。

そのような、地上にあるウロや隙間や穴がたてる響き、うなり、共振。
それが地籟であるというのです。

こうした人の振舞いや自然の振舞いが生みだす二つの響きに対して、もう一つ、「天籟」の響きがあるという。

天籟とは何なのか。
人籟には音を人籟として成り立たせる力があり、地籟には地籟を響かせる根源の力がある。
人籟や地籟の区別を超えた、さらに奥深い音の存在。その聴こえざる響き。それを天籟と称したのです。

ひらたくいえば、天籟とは大自然の声であり、大自然の呼吸である…ということになる。

それに耳を傾け、聴こうとすること。聴こえぬ響きを聴きとるためには、どうすればよいのだろうか…。

「思惟をとり去り、作為を捨てて無心」になりきる。天地自然の振舞いに身をゆだねる。
すると天地と人が渾然と溶けあい、響きの根源に触れることができるという。
その境地を「天籟を聴く」と呼んでいます。

人間の耳は、この天籟さえも聴くことができる…と教えている。
これはとても重要なことだと思います。


杉浦康平 著
工作舎 発行
『宇宙を叩く〜火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響き〜』、より

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